創業からの歩み
創業から今日まで
昭和34年6月 ラーメン屋の2階からアドレス通商(株)の歴史が始まった。
社員9名のスタートだった。当時はタイピストによる宛名のタイピングがメイン業務。その延長で当時最新式だった引抜宛名印刷機を2台導入した。「AM式53型」である。当社ではみんなステンシルカードと呼んでいた。お預かりしているカードを使い、株主宛ての総会通知や売買報告書の発送代行作業も受託した。
「ステンシルカードは半自動、機械のタイミングにあわせて手動で封筒を入れたりインクを盛ったりする、だから技術が必要だよ、慣れないとネクタイを挟んだり、インクが飛び散ったり散々。でも慣れてくるとスピードが出てきて楽しくなったよ。今ではもう業界でもこの機械を扱える者は何人もいないはず。」と当時を知る社員は言う。
昭和39年 各企業が社報・会報を積極的に発行するようになり、ダイレクトメール事業が拡大していった。
昭和43年 益々ダイレクトメール発送も増え、大手通信販売会社からの依頼で宛名のボールペン筆耕を2週間で100万件書き上げた。皆、必死だった。「今のように郵便局も24時間対応ではなかったので、毎日20:00の終了ギリギリに郵便局に飛び込み、郵便物を発送していたというのが、当時の状況だった。1分でも過ぎると受け取ってもらえないからね。」とも社員は語ってくれた。
昭和47年6月 荒川区東日暮里に移転。(現・業務受託本部)
昭和48年9月 人材派遣業務を開始した。 社員は35名になっていた。
昭和51年 コンピュータによる事務処理の受託業務を開始した。
当時まだコンピュータは高嶺の花だった。同じ年、現・主要お取引先様への新規営業に挑んだ営業マンがいた。「当時そのクライアントは顧客数10万人から20万人へのステップアップに燃えていたんだよ」と言う。当社は全面的に協力体制を敷き、このクライアントは順調に全国的に顧客数を増やしていった。顧客の増加に伴いそのクライアントは関東地区拠点を模索していた。そして当社がその拠点業務を受託し、昭和59年久喜センターが誕生した。従業員数も350名近くになっていた。
昭和54年 商品保管の需要が多くなり当社物流拠点である志木センターを中心に物流業務を開始した。
昭和61年12月 東京ディズニーランドに近い、江戸川区臨海町の現・本社へ移転。
そこから時代は平成へと変わり、平成5年12月千葉県東金市に新物流センターが完成。ダイレクトメール、人材派遣、物流事業をさらに発展させ、平成18年3月東金物流センターを拠点とするエンジニアリング・サービス部門を分社し、アドレス・サービス株式会社を設立した。 従業員数も1,500名を超えIT関連事業、家電修理業務などの新規事業も展開し、現在もアウトソーサーとしてアドレス・グループは躍進を続けている。